自由律俳句クラブ 群妙
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「群妙」の今          西村 謙  (群妙6号より)

 富永鳩山さんに御願いして、「層雲」第一巻の復刻版を見せていただいた。明治四十四年という創刊時の時代背景を調べてみると、幸徳秋水らの大逆事件で十二名が死刑になっているし、その波は啄木にも及んでいる。「時代閉塞」感から社会主義的な傾向になっていたことによるようだ。文藝全体にも何か新しい時代を開拓しようとする気運が漲っていたのであろう。六十二ページ「文壇と俳壇」を読むと、井泉水は子規の俳句に対する功績を讃えながらも「文壇をして俳句を適当に理解せしめる迄にして下さらなかったのを遺憾に思ふ」とも書いている。そして、その稿の終わりを次のように結んでいる。

 ○文壇は世界の思潮と交渉を有して居る並木の道、広き若草の原である。俳句には其れに適したる地味があるとはいへ、時に之を沃えたる野に移し或は新しい土を以て培はなければ、遂に盆栽的の玩弄物になってしまひはしないだろうか。
 ○文壇の方々には俳壇の進歩に注目して貰ひたく、俳壇の方々には文壇の大勢に注意せられんことを望むのである。

 井泉水がこれを記して百年に近い時が流れているので、すべてが現況に当てはまるとは思わないが、井泉水の新しい俳句を求めている情熱は伝わってくる。ただ、私の読みたいと思っていた「層雲」創刊時に、井泉水が音数律と季題とにどんな考えを持っていたかについては、ここでは出会えなかった。鳩山さんの誘いを受けて「群妙」に入会させてもらったものの、六十余年間、詩ばかりを書いてきたものにとって自由律俳句は未知の世界である。定型については、国語教師としてその解釈はしたが、自由律については防府の人間として山頭火を通して知った程度なので、自由律に至るまでの経緯が知りたかった。
 次に、本誌第五号所載の、草原舎そねだゆ氏の「詩性」と「俳句性」に触れておきたい。「群妙」会員の中には、私と同じように初めて作者として「俳句性」に思い及ぶ人も多いし、短歌や現代詩の作者として精進している人もいることを念頭に置いての話である。
 私の場合、詩人ではないが詩を書くことにこだわり、受け手として文学全体に触れることにこだわりを持っている。八十歳を過ぎた老いのアナクロニズムの霧がかかった思考かもしれぬが、私も「今」を生きている人間であるから、周囲を直視し、自分の座標を考えたい。そして、門外漢でアナクロの私は、正直に申し上げて、以下述べるような疑問が脳中を去来してしかたがないので、また、いつかご教示を賜りたいと思っている。
 手短に言って、歴史的に不変の「詩性」「文学性」をいうものがあっただろうか、ということと、音数律や季題、更には歴史的な文語に依拠しなくてもいいとした自由律俳句は、時の流れに副おうとする意図があったのではないか、ということである。その答えによっては、門戸はさらに広くなり、また、狭くなることもあろうと考える。
 帆を上げたばかりの「群妙」主宰富永鳩山さんは、自由律俳句の行方を模索し、自分なりの在るべき姿を抱いていながら、私などのこの道に昏いものも招き入れ、その多様な作風を黙認しながら、先の見えている水先案内人として「群妙」という句集団の船を目指す港に導こうと八面六臂の活動をしている。彼の抱いている在るべき姿というのは、本誌巻頭に連載している「つぶやき」を読んでもらえば十分伝わってくる。彼は、今はまず門戸を大きく開き、多様な作品はあっていい、新しい風の吹くいい港に行こうと言っているように思う。私は、彼の情熱に拒否されれば別だが付き添い応援をしたいと思うのである。港は、井泉水が夢見た景色が広がる、共感の場だろうと信じている。

山頭火全国自由律俳句大会 私が選んだ秀作句         富永鳩山 

 稲穂うつむいて揺れる一分間の黙祷        和歌山・山林ふじよ

「稲穂」で日本の夏を象徴しています。そしてその夏は広島・長崎の原爆忌、そして終戦です。その日、その時間には全国的にサイレンや原爆忌、そして追悼であり、平和への願いでもあります。黙祷という名詞で終わっていますが、通常、句は名詞で止めると「言い切り」で余韻が伝わりにくいものですが、この句は「黙祷」という人間の姿勢を表現して、心の動きがあり、印象的になりました。「一分間の黙祷」で多くの犠牲者に対する追悼と、戦争は二度としてはいけないと誓う、深く強い気持ちが表現されています。「稲穂うつむいて揺れる」と優しく、一種の「寂しさ」を含む言葉で始まり、「一分間の黙祷」という作者の姿勢で、ややもすれば風化しそうな歴史を読者に呼びかけているようにも思えます。

 夜行バスそれぞれの明日が眠っている        出穂澄江

 人間はそれぞれの生き方をして、「その中で、それぞれの思い」を背負って生活しています。「夜行バス」という一つの空間に乗り合わせている一人一人が色々な思いでいますが、夜行バスですから、翌朝には着くべく所へ到着する。30人なら30の思いを乗せた「夜行バス」なんです。読み手つまり私達は、この句から様々な人の思いがあるのだろうと想像が膨らみます。つまり、共鳴するんです。「心そのもの」を揺さぶり、情感のあふれる・自由律としていい句だと思います。私はこの句の人間的な自然の情感が文学の基本だと思います。心から出発しているんです。

 また逢えるだろうかいっぱい手をふる        島田和恵

 いい句ですね。この句の良さは何よりも高まる気持ちをただ一つに絞り、それのみをしっかり表現したことでしょう。肉親とのしばしの別れか、大切な友達との別れか。また逢えるだろか、ひょっとしたらもう逢えないかもしれない、そのすべての想いを「いっぱい手をふる」で実に素直に表現しています。これほど読者によく伝わる句も珍しいですね。もった回らない、理屈のいらない、切ないほど可愛い情感あふれる句となりました。作者が見える句ですね。

  次もまた無人駅ですふるさとです        池田実

 こういった現実が全国にあります。寂しくなります。日本が本来の復元力を失ってきました。久しぶりにふるさとに帰ってみますと、駅はがらんとした無人駅です。そしてこの「無人駅」はふるさとそのものを象徴しています。そこに住んでいる人はわずかばかり、しかも知らない人ばかり。あの幼友達はどこへ行ったんだろう。孤独だけが残っているふるさとです。そうした作者の思いが淡々とした言葉で語られ一層深い情感がにじんでいい句になりました。

 きっぱりと青空 私が私でいる        田中里美

 「きっぱり」とした青空、これだけで、気持ちが良くなる。「きっぱり」は何かそんなに具体性がある言葉ではありませんが、やはり清々しい。引き続き「私が私でいる」今日の青空が、これまでの、心にあった暗雲を、さっと掃いてくれた。そこに本来の自分が姿を現した。私らしく生きる。そういった気持ちが見事に表現され、言葉の力を感じさせる句となりました。

 原子炉の道に総立ちの曼珠沙華        鈴木まり子

 彼岸にいっせいに曼珠沙華が咲く一方で一つ間違えば大惨事になりかねない原子炉が巨大な姿で不気味に建っている。この対比がいい。更にその曼珠沙華は総立ちになって原子炉をにらんでいる。作者のまっすぐな気持ちが「総立ち」になった。表現力のすぐれた見事な句です。

自由律句のおもしろさ          那須 正幹  (群妙2号より)

 わたしの職業は子ども向けの物語を書くことで、詩作や句作といった、いわゆる韻文形式の創作はまったくの素人である。本誌に寄稿されている諸氏のように長い経験も深い造詣もないが、仕事柄言葉をあやつる技はいくぶん持ち合わせているので、なんとか末席を汚しているしだいだ。
 わたしが自由律句に出会ったのは、かれこれ三十五年ほど前、漫画週刊誌「少年マガジン」に掲載された山頭火の生涯を描いた劇画だったと記憶している。この中に山頭火の句が挿入されていた。第一印象はさほどのものではなかった。たとえば彼の代表作のひとつである
         うしろすがたのしぐれてゆくか
についても、流行歌の一節みたいだなと思っただけだ。
 この句の重さは、彼の人生を知らなくては理解できないのではないだろうか。もちろん彼の句のすべてがそうではない。
          鉄鉢の中へも霰
         分け入っても分け入っても青い山
         まっすぐな道でさびしい

 などは、なんの予備知識がなくても、すなおに感動させるものがある。おそらくこれは、ことばぼイメージが鮮烈だからではないだろうか。
 自由律句は、定型句のようなリズムもなければ、文語体による修飾もほどこせない。季語による季節への寄りかかりもない。ごくごく日常的なことばだけで対象をすくいとることを要求される。日々の暮らしの中の心の揺らぎを短いことばに集約させるだけである。要するに自由律は、その人の独白である。
 ため息交じりにつぶやいたり、微苦笑の中から生まれる独白もあろう。あるいは腹立ち紛れに吐き出される罵声もあろうか。
 本来独白は思わず口をつくもので他人に理解してもらう必要はないのだが、自由律句は、他人の共感を得るものでなくてはならない。そのためのことば選びが肝心だろう。あるいは個々のことばへの審美眼も必要になってくる。
 ただ、あまり技巧に走ると俗に流れたり理屈っぽくなってしまう。自由律は奧が深いなと、つくづく思う。
 創刊号に掲載された小学生の作品に
          ぼんやりして今日はおわり
 
というのがあった。おそらく夏休みの日記でも書こうとしたのではないか。夜になり、なにも書くことがないことに気づき、困っている子どもの顔が浮かんでくる。
 たったこれだけの短文の中に、そうした情景を想像させるのである。これこそ、自由律句の神髄なのではないだろうか。

私の言葉遊び                 林 木林  (群妙4号より)

ときおり、心の中から言葉がやってきます。空の上から光のように降ってくるときもあれば、心の奥の方から湧き水のように湧きあがってくるときもあります。それをそのまま放っておくこともありますが、降ってきたり湧いてきたものを材料にして、作品をつくってゆくこともあります。
作品をつくる過程で、きれいな箱に入れたり、ラッピングをしたくなるものです。例えば、五七五の十七文字の箱に入れれば俳句や川柳になります。俳句の箱に入れるときには、そっと季語を添えて。季語を添えずに無季の箱に入れるときもあります。
おや?なんだかこの作品、ユーモアがあるのかなあと思ったものは、川柳の箱に入れます。なんだかあんまりきれいに収まっていないなあ、もっときれいに収まらないものか、もっと魅力的にならないものかと微力ながら自分なりに格闘してみたりします。
でも、俳句の箱と川柳の箱がごっちゃになったりもしていて、川柳俳句みたいなものがどちらかの箱に紛れ込んでいたりすることも私の作品には珍しくありません。言葉遊びも楽しくなければやる気が起きませんので、あまり堅く考えないことにしています。
どうしても、五七五の十七文字の箱には収まりそうもないけど、詩にするほど長い作品でもないものは、五七五七七の三十一文字の箱の中に入れたくなりま す。三十一文字から少々はみ出していても、箱の隙間がちょっとぐらい余っていても、六六五七七や五七五六八になっていても、そんな細かいことは気にしません。自分自身がその言葉の贈り物をもらったとして、箱を開けてみて、わくわくしそうなら、ひとまず出来上がりということにします。
詩を書く場合には、箱の大きさや形は様々です。一行のものもあれば、何十行、何百行にも渡る長い作品もあります。詩には決まり事がないので、ラッピング も自分自身で自由にアレンジし、飾りつけたければ飾るし、そっけないのがいいなと思えばほとんど素材のまんまだったり、調子に乗って飾り過ぎてしまった り。
そんな感じで、言葉と遊んでいた私ですが、近年ご縁あって、自由律俳句なる未知のジャンルでも新たに遊ばせて頂くことになりました。
自由律俳句は、俳句だけど五七五の十七文字の箱に入れなくてもよい、季語も添えなくてよく、一行という小さな箱にいれなければならないほかには、箱の形 も、ラッピングの仕方も詩と同じ同じように自由のようです。作者がどんな箱を選んでいるか、どんなふうにラッピングしてあるかは、その人のセンスに任され ます。あまり細かいことは考えずに私などは、ちょうど目の前に置いてあった紙に包んだだけであったりしています。新聞紙を開いたら泥のついたジャガイモが ゴロリところがっている、そんな作品も時々ありそうな感じで、自由に遊ばせて頂いている次第です。
私にとって、言葉と戯れるということは、頭の中が、まさしくおもちゃ箱をひっくり返したような状態になって、あちらこちらにちらかしっぱなしになってい る言葉たちが、いつか作品にしてもらえる日を夢にながら、ときに埃を積もらせて散乱していたりします。そんな言葉たちを少しでも作品にしてきれいな箱に入 れてあげることができたらと思います。いえ、素材のまんま泥のついたさつま芋のように差し出すことの方が似合う言葉にはできるだけそうしてあげたいとも思 いながら。
こんな調子で、短詩型の作品を書いてしまう私は、それぞれのジャンルに対してきちんと線引きができていません。作品の定義よりも、どちらかというと遊戯 を大切にしています。短歌・俳句・川柳、そして自由律俳句も私にとってはみんな同じ詩の仲間であることで、こうして戯れていられるのだと思います。そこに 季語があるとか、文字数やリズムの決まり事があるといった所が違うだけだというようなぼんやりとした感覚の中で、ポエジーという大きな手のひらの上で遊ば せてもらっているのでしょう。

総合誌的機関へ!                 田中 陽  (群妙4号より)

 この稿のペンを持ったとき、つけてあったテレビがぱっと消えて、「福田首相辞任」が報じられた。またか!と、びっくりしてしまった。
 前の安倍首相は嫌いだったが福田さんは個人的には好感の部分もあっただけに残念であった。しかし、こうも内閣ががたがたとするところ、半世紀以上もつづいてきた自民党独占も、そろそろその化けの皮が剥がれてきた想いがする。哲学なき政治の末路である。
 脚下照顧、わが俳句界を見渡すと、これは自民党ごときではなく、大正ー昭和ー平成とつづく一世紀余の間、保守(有季定型)俳句が独占の体制を作っている。
 戦後、第二芸術論の痛棒を喰らい、少し目覚めたかに見えた俳壇も、資本主義という販売競争原理のもと、大衆が安易に楽しめる。“無自覚”の方向へ逆戻りしてしまうのである。
 口語俳句協会は、苦難を承知で人間の自覚と俳句創作とをつなげる道を歩いて五十年。先ごろ、島田市においてフオーラム「口語俳句五十年ー成果と展望」を開いた。この際、あの強大なる保守亡霊内閣(高浜虚子初代首相)に挑むための野党の“大同団結”が喫緊の課題となっていると愚考する。
 新誌「群妙」は、自由律を軸足に口語俳句はもちろんのこと、戦前の新興俳句(その流れを汲む結社)、戦後の社会性俳句、前衛俳句、世界俳句・・・・・・等々革新野党有志の糾合を呼びかけ、彼等の論作を発表していく総合誌的な機関として漕ぎ出していったらどうであろうか。

 

第一回東京自由律俳句会        海紅社 中塚唯人  (群妙4号より)

 この会は、「自由律俳句は有季定型俳句に比べ総合誌もなく、確固たるジャンルの確立もななされておりません。これまでの歴史的流れを見ても各結社がわが道を進むだけで横への繋がりはなく、これからもこれまでの現状意地の考えでは発見も望むべくもありません。今後はお互いの独自性を認め合いながらも、鎖国的な垣根を取り払い、多くの人の作品を提示し、自由律界内において互いに切磋琢磨することにより、その作品全体を高め世の中に提示する機会が必要と思います。そこでその第一歩として結社・個人を問わず、多くの自由律系の俳人の交流を図るべくこの会を計画しました。」の呼びかけの下に五月二十五日、東京江東区芭蕉記念館にて開催されました。
 このような結社・句会の枠を越えた試みは、これまでの自由律界にあって歴史上初めてのことで、確かに第二次世界大戦末期の国家機関の弾圧を受け、「海紅」「層雲」「陸」の各誌は統合を余儀なくされ、「俳句日本」の名で三者共存されることがありました。しかし戦争も終わり「俳句日本」は解体され、それ以前のように自由律界は再び独自の道を歩み始め、その後、六十余年を経て二度と手を繋ぐことはなく、その結果が今日の自由律の衰退をもたらしたと言っても過言ではないと思います。
 そこで先ずはどのような自由律系の句会があり、そのような指針のもとに何時どこで活動だれているかのネットワーク作りが必要かと考えます。確かに「海紅」のホームページを見ても自由律俳句の潜在的愛好者はたくさん存在しています。
 ただし総合誌もなくその人達が自分の都合の良い時に、自分の行ける句会がどこにあるかも分からなく、自由律句を目指そうにもそれが出来ないのが現状です。先ずはそのネットワーク作りを早急にし、誰でもが参加できる全国規模に拡げていくことが必要だと思います。先ずそれを東京から切り開きます。それがこの会の趣旨です。
 十一月には同じ場所で「ぎんなん句会」プロデユースによる「第二回東京自由律俳句会ー勉
」も開かれます。今、この船に乗り遅れれば二度とこのような船出はなく、大海原の孤島に取り残されます。それが出来る最後のチャンスです。そしてこの船に同乗した皆さんが、ただ同乗するだけではなく各自が舵取りとなり、同じ航路を進むことが大きな喜びとなるよう願ってやみません。

自由律と定型俳句とは        海紅社 中塚唯人  (群妙3号より)

 この問題を語るには、今一度「俳句」という言葉を見つめ直す事から始めましょう。
 広辞苑で『俳句』という字を調べますと、
 【俳句】@俳諧の句。こっけいな句。A五・七・五の十七音を定型とする短い詩。連歌の発句の形式を継承したもので、季題や切字を読み込むのをならいとする。明治中期、正岡子規の俳諧革新運動以後広まった呼称である。短歌と共に日本の短詩型文学の二潮流。定型・季題を否定する主張もある。とあり、次に「自由律」をひいてみますと、
【自由律】短歌または俳句の一様式。在来の三十一字または十七字の形式を破ったもの。和歌では前田夕暮、俳句では河東碧梧桐・萩原井泉水らが提唱。と書かれています。「自由律短歌」とは今はもうそう呼ぶ人はいないと言ってもいいでしょうから、先ずは歴史的にも俳句は「定型俳句」と「自由律俳句」の二つに大分けするのが一般的な概念です。

 <自由律の萌芽>
 萩原井泉水は俳句を「庶民的な詩」と位置づけ、季語・十七音等という一切の制約から解き放ち、自由自在に、自然のあるものを感じて、その生命を把握し自分の言葉で、「最も端的な表現」とするのが俳句だと主張したのです。
 更にそれより以前、既に中塚一碧楼は、大正二年発行の『第一作』の中で、自己の作品を「俳句ではない」と宣言しています。それを引用してみますと、「私の詩を俳句だという人があります。俳句ではないという人があります。私自身は何と命名されても名なんか一向に構わないんです。また構ったからと云うてこんな事は見る人々の量見次第で所詮は先方任せにするより他仕方がないと思っています。第一私は俳句から最も大切な季題趣味というものをなんとも思っていませぬ。季語が無いからどうとか、季語が入っているからどうとか云う事はわたしにはなんでもない他所事(よそごと)なんで、私には全然季題の囚われから脱し得たと自信して居ります。
 私の書いた詩には季語があるから俳句と見られ、季語が無いから俳句ではないと云う様に見られる事は私は最もつらい事なんです。何故ならば私は季語を入れようと思いつつ詩を書くのでもなく、季語を入れまいと思ひつつ詩を書くのでもありませぬ、思い浮かぶ通り自由に書いて居るのですから。(中略)此様に私は全然季題趣味に係わらずに居ります。形式も十七文字そこらになろうと三十一文字そこらになろうと幾文字になろうと構いませぬ、私が書きたい様な形式に書きます。」
 これを自由律宣言と言いますが、その起因は明治になると日本語の変遷史の中でも最大の革新というべき「言文一致運動」が起こり、これを俳句にいち早く取り入れた一碧桜は、明治十四年『試作ー第四号』の中で完全なる口語での俳句を十一句、しかも五七五にとらわれない非定型作品を発表したのです。
 こうなると口語で自由に心のおもむくままに句を作ろうと思えば、季語や切字とかの便利な既製の言葉は使えませんし、また俳句を自分の言葉で自由に表現しようとすると、これまでの俳句の持つ一切の制約から逃れ形式も十七文字から脱し、季題趣味からの脱却も当然の必要として迫られたのです。これが自由律の萌芽なのです。

<自由律の独立>
 この歴史的背景を考えると、井泉水は「自由律俳句」を俳句の進むべき本来の姿と主張し、「俳句」という言葉に最後まで固執しましたが、もはやそれは到底無理難題とも言うべき事で、「俳句」という名称はすっぽりと季題趣味と十七文字を墨守する定型俳句に譲り、自由律は俳句という冠を脱ぎ去り、「自由律」という確固たるジャンルをもっともっと主張するべきではないかと思われるのです。
 過去にもそのチャンスは三度ありましたが、いずれも当時の自由律界は俳句という名前に固執し、定型俳句に寄りかかることで、ぬくぬくと保身を図り立ちあがることなく、これが今日の定型俳句の後塵を拝す大きな原因となり、この問題を再考しない限りはいつまでも歴史は繰り返され、これまでと同じように一歩も前へ進むことはないでしょう。
 私は「定型俳句」を否定してはいません。これは一種のゲーム感覚で、ゲームやスポーツにルールがあるがごとく、一定の制約の中で俳句を作るのも知的ゲームとしては大変面白いものだと思います。しかし、詩を志すならば、「先ず形式ありき」は到底受け入れられないことは自明の理ではないでしょうか。詩を選ぶかゲームを選ぶかの選択だとも言えましょう。
 そのためには「俳句」の仲間に入れてもらおうと言うような従来の媚びは排除し、「自由律」を「定型俳句」からはっきりと独立化し、「定型」を我々が認めるように「自由律」の独自性を認めてもらうべく、全ての利害関係を取り除き結社の枠を越えた大同団結を図らねばなりません。これが出来ない限りはいつまでも定型俳句と肩を並べることはできないと言ってもいいでしょう。
 もちろん自由律俳句にも問題点はあります。十七文字という字数制限だけしか違いを見出せないような、表現方法や考え方・発想の定型化と既成化が根ざし、今日では自らが不自由律になりつつあるのも事実で、ここらでもう一度全てから自由になる必要がありましょう。

<共に感動する自由律>
 もう一方、自由律では「自分の満足する句を作る」が当たり前の主張になり、読み手の自由を無視した一部の人の個人的な趣味に留まる作品も多くなり、大衆の共感を得る、すなわち今後「道行く人の足を止める」作品を意識して創ることも肝要で、その意識の上で横並びでなく個性煌めく「私の作品」の呈示が必要と思います。
 そのためには従来の自由律の結社のように鎖国的で、個々の努力だけで自由律を広めるのではなく、外へ出ることにより点から線へ、そして更に面へとの強い絆と広がりが必要です。ある面ではお互いの利益を越えた所での協力と、独自性を尊重した上でのお互いの作品の提示の場を作り、そこでの作品の向上が必要で、そのために少しずつでも自由律界の内なる交流を深めて行きたいと思います。
 この時代に『群妙』と言った力強い味方を得たことは誠に喜ばしいことと思います。今後とも自由律界のため宜しくご支援を願い上げます。

存在の要 ー新誌「群妙」に期待するー  田中 陽  (群妙2号より)

 山頭火・放哉を産んだ自由律俳句は今や時代の脚光を浴びている。しかし、“伝統俳句”は相変わらずこれを無視する。さすがに“現代俳句”を名乗る一派からは自由律容認の声が挙がる。
 口語俳句は、「自由律と現代」のはざまにたって、その“詩の真実”を見極めてゆきたい。ここでいう「現代」には、“現代川柳”と称する一派も視野に容れたい。

 上記のような趣旨でもって七月七日、静岡県浜松市において第18回口語俳句フォーラム「自由律と現代ー新しい俳句の戦略(二)ー」がひらかれた。
 基調講演に山頭火研究家で作家の村上護氏を呼び、パネリストは小山貴子(「層雲」同人)、中塚唯人(「海紅」代表)、藤田踏青(「層雲自由律」同人)、渡辺隆夫(川柳人)の四名で、司会を僕がつとめる。
 冒頭掲示の主旨に沿って村上氏は「自由律俳句お推進」についての“戦略”を示唆してくれ、放哉研究家でもある小山氏は「層雲」の、一碧楼の末裔でもある中塚氏は「海紅」の、それぞれ伝統を現代に進める自由律論を展開、藤田氏はまた“前衛”といってもよい拾い意味の短詩論を。そして渡辺氏は川柳人らしい諧謔をまじえた定型詩論?を展開したように記憶している。(いまテープ起こし中で、詳しくは「俳句原点」123号=口語俳句年鑑2007年版=に掲載される)全発言がその根底に、「新しい俳句」は口語(現代語)で表現されるものである、といった思考が窺えるのはもちろんで、ならば文語有季定型切字の四点セットを揃えて俳句と為すといった安易な方法論で済ます俳人はいない、と見てよいのだろうか。
 否、である。村上氏の講演の中に、まだまだそのような俳人が圧倒的であること、そして、その「俳句」なるものは外国(たとえばフランス)の詩人たちには五十年でマスターできてしまうだろうということ。で、五十一年目からは、逆に外国のハイクとして逆輸入されるようなことになる・・・・。こうなると、日本の国内だけで文語定型だ「歳時記」だといって俳句を帰省し楽しんでいても、世界文学(詩)としての立場から見ると、それ自体は何の価値もない“鎖国文化”に過ぎないのではないか。ーといった話になる。
 先日(九月十五日)僕は、世界俳句協会(夏石番矢ディレクター)の第四回世界俳句大会(東京)に参加し、アメリカ、ヨーロッパ、アジアなど諸外国の詩人の話を直接聞き、それを日本語で読んだが、いまや俳句は世界の“短詩”であるということを実感した。この会の特徴は、参加者は全員が自作を朗読するという機会に恵まれることで、その雰囲気は、それぞれの国の言葉が交錯し、まさに地球規模化した俳句の醍醐味を味わうことができる。僕は当日、辛うじて英語で自分の名前と所属「口語俳句協会」を紹介してから、
     海に向かいまっさおいだけのぼくの戦後史
     旅からもどり愉しい敵がふえつつあり
     祭の裏通りが好きで、深まりゆく傷だ
     海がきらきらときらきらと僕を歩かせる
の四句を翻訳なしで朗読した。僕は持論として、俳句の朗読は定型句でないリズムのほうがよい、
口語自由律の迫力こそ、魅力である、とする。自分でいうのもおかしいが、僕の朗読は公表であった。わざわざ名刺を持って賞賛に来た北海道の、見知らぬ若い女性もいた。
 さて、“浜松フオーラム”に戻るが、あとの懇親会で、たまたま村上護氏と「群妙」代表、富永鳩山氏と僕は「これから、大いにやりましょう!」と三人の手を固く結び合った。アルコールのせいでは決してない、声のボリュームも上がっていた。「これから」とは、「群妙」創刊号をきょう参加者に一冊ずつ贈呈することができた、その溌剌たる出立を含んだ明日ーーー第二号からの発展拡大をも意味するはずである。
 このフオーラムはそもそも、自由律と口語俳句、そして現代川柳(俳句)の革新的エコールの“大同団結”を戦略としてえがく構想から企画されたものであった。そしてそれは、昨年防府市で開催された国民文化祭・種田山頭火顕彰の文化祭が自由律および口語俳句の結集(作品応募者も出席者も、そして選者も)とその成功を得て、発起されたのであった。
 「群妙」としても、この文化祭を契機とした自由律俳句講座に端を発するものである。そして「・・・・様々な思いや情感や思考、哲学まで含めて、自由な投稿により、活発で前向きな議論を展開して行くための舞台『群妙』を立ち上げることになりました。」(富永鳩山「はじめに」)
 それならば、この「舞台」に自由律俳句人はもとより、われわれ口語俳句人も、そして現代川柳人を含め進取な精神の現代俳句人は誰でも上がって歌い・踊り、かつ何らかを演じつつ交流を深める権利を有するのではなかろうか。
 こうして見てくると、大同団結を目指した「自由律と現代」口語俳句フオーラムの実を結ぶために用意された「群妙」の創刊だったとも思われてくる。実にタイムリーだったといわなければならない。一方で、「小さな輪輪の仲良し子良しも趣味としては楽しいかも知れません。しかし、それだけでは先人が身を削って切り開いた『新しい文学』を言葉遊びとして弄んでいるにすぎないのです。また、それをそれなりにしてきた自由律俳人達の諦観も」なしとは言えません。」(はじめに)富永鳩山代表は、このように述べ、きびしく省察を行っている。これは口語俳句にも言えることである。目指すは一点“詩の真実”を見極めること、この共通の理念を求めて前進する各エコールの交流こそ、鳩山代表の希いなのではないだろうか。
      山頭火は味方 雲湧く方へわくほうへ歩く      陽

 山頭火という人、稀に見る“生きる”ことに執念を燃やした人であった。彼の作品すべてにそれが窺える。彼の“味方”がますます増加の一途を辿るゆえんでもあろう。
 「群妙」は、そんな人たちの要(かなめ)として存在して欲しい。これから「群妙」は、自由律俳句講座の受講生諸君の作品発表の場であることを主体として、全国の「新しい俳句」を目指す精鋭の集うサロンともいった、なくてはならない誌に成長していくであろう。

 「群妙」創刊に寄せて  防府市長 松浦正人  (群妙創刊号より)

 「群妙」創刊おめでとうございます。
自由律俳句の巨匠というべき種田山頭火のふるさととして全国に名高いわが防府市から、この度山口県初の自由律俳句の機関誌が創刊されましたことをとても誇りに感じる次第です。
 主宰されます富永鳩山先生の山頭火に寄せる並々ならぬ情熱を深く知る者のひとりとしてこの度の貴いご決断に心から敬意を表します。
 富永先生は書家として国内はもとより、海外においても各種芸術展において高い評価を受けられ、防府市在住の芸術家として多くの弟子の育成につとめられるかたわら、山頭火のふるさとである防府市でさえ、当時はまだ山頭火の偉大な業績を評価する者も少ない中、昭和五十五年春に山頭火研究会を立ち上げられました。昭和の芭蕉と称される程の山頭火フイーバーの火付け役でもございます。
 この句集「群妙」が近き将来、日本の文芸界を代表する俳句誌になることを確信し、創刊にあたりお礼とお祝いのご挨拶に代えさせていただきます。

「自由律俳句集」出版を祝して  「層雲」代表 渡野辺朴愁 (群妙創刊号より)

 わたしが初めて富永鳩山先生にお会いしたのは、山口県防府市で催された国民文化祭・自由律俳句全国大会の選者として招いていただいた時でした。
 俳句大会での役目もなんとか果たせた後、ご多忙のなか、種田山頭火の生家跡や防府市の名所、寺院など、ご親切にご案内くださいました。防府は初めての土地であり、実に嬉しく楽しい時を過ごしたことは忘れることが出来ません。富永先生は、ここ二年間に亘って防府図書館での自由律俳句講座を担当し指導を続けてこられました。このたび、その節目としての句集を出したいとのことで、わたしにも参加するようお話をいただきました。
 句集の出版には、この講座で学習した人達が枝となって自由律俳句の愛好者が広がり、育っていくことに大きな期待を込め、わたしもこの意義深い企画に参加できることを喜んでおります。
 ここに、山口県はもとより、全国に向けて発信する清新で画期的な「自由律俳句集」の創刊を心からお祝い申しあげます。

「群妙」の響きに和する 西村謙 (群妙創刊号より)

 青風漸く到る頃、「群妙」が帆を上げることになったのは真に気持ちがよく、御同慶に耐えない・富永鳩山さんの自由律俳句に寄せておられる熱い想いを伺ううちに、自由律俳句の読者でしかなかった私も、恥をかくのは覚悟のうえで作者の仲間に入れてもらった。
 昭和二十三年に新制中学校の国語教員となった私は、紅潮から読んでみろと「山頭火」について書かれた本を渡された。自由律俳句との出会いである。第二十一回国民文化祭で上演した山頭火劇「分け入れば山頭火」の台本を書くことになったのも因縁めいたものを感じる。
 六十年も詩を書き続けている私が、どうして鳩山さんに和することになったかというと、長い歴史を背負った現代詩に、ある苛立ちを感じているからである。自由律俳句の響きに和することで、私の詩の有り様に対する苛立ちが直ちに消えるものではなかろうが、少なくとも「なんでもあり」の現代詩に、私なりに何らかの視野の新たな展開をもたらしてくれるであろうと期待している。
 参加された多くの方々のお名前を見ても、エコールを超えて各様の内在律を持った句が勢揃いするであろうし、「群妙」が百花繚乱のうたの波を起こすに違いないと思っている。

  自由律俳句の名称について       富永鳩山 (群妙創刊号より)

 江戸時代の連歌から俳諧の流れが因習的な卑俗なことばの遊戯であるとして、これを革新するために正岡子規が俳諧の発句から俳句の名称を定着させた。しかし折からヨーロッパからの写実主義の文学革命の中、俳句も新しい波の洗礼を受け、当時の帝国大学では新派俳句、河東碧梧桐等によって新傾向俳句、荻原井泉水等によって自由律俳句と呼ばれるようになり、今日に至っている。よくよくみると、句というものが、江戸時代から「俳」に寄りかかってきたことが解る。つまり「俳」に寄りかかることで俳句なんだと主張して来た歴史がある。本来「俳」の字は形声文字で、「人+非」非はそむくの意味。常識にそむいた一風変わった振る舞いをするおどけの意味を表している。従って、「俳」はおどけ、ざれ歌、滑稽味のある歌に使われ、その典型が俳諧である。
 改革、革新するのなら、「俳」から自由になるべきであった。定型俳句からの決別をすべきであった。自由なリズムの句でよかったのではないだろうか。当然、依って立つべきその精神も自然をありのままに詠む「写生」から人間の内観に立脚する「魂のつぶやき」へと変遷したことを考えると。これはもう「句:でいいのであって、そろそろ「俳」から解放され、新しい文学、「自由律句」でいいのではないかと一石を投じてみたいのである。いつまでも五・七・五でなくてもいい。季語もいりません。口語でいいんです。と言い続けることから独立する時が来ているのではないだろうか。
 また、残すべきもの、依って立つものがなくてどうなるか、俳句を離れて「自由律句」が一人歩き出来るだろうかといった意見もあるだろう。
 どうぞ皆さんの意見をお寄せ下さい。


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